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第四話 外出申告制

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-02-04 19:00:10

 鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。

 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。

「おはよう。朝食は十分後だ」

 それだけ告げると、部屋を出ていく。

 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。

 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。

 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。

 ――休日でも、服は決められているのか。

 そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。

 シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。

 今日の朝食は、和食だった。

 ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。

 平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。

 湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。

 味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。

「……おいしいです」

 自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。

「そうか。口に合ったようでよかった」

 鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。

「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」

「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」

 鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。

 鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方も、茶碗の上げ下げも、すべてが整っている。

 育ちがいいのだろう。湊なんて、気づけばいつも猫背になっているし、肘をついて食べることもある。鷹宮の姿勢を見ていると、自分も正さなければと身が引き締まる。

 食事を終えた鷹宮は、箸をゆっくりと箸置きに置いた。

「今日の予定は?」

 その声が、少し低くなった気がした。

「今日は……買い物に行こうと思ってます」

「買い物? どこに?」

 鷹宮の目が、湊をまっすぐに捉えた。

「えっと……まだ決めてないんですけど、渋谷あたりに出ようかと……」

 本当は、何かを買うつもりはなかった。お金もないし、ただぶらぶらと歩き回りたかっただけだ。久しぶりに外の空気を吸いたかった。

「何時に出て、何時に戻る?」

「そ、それは……」

 言葉が詰まった。

 まだ何も決めていない。見て回れば、どれくらい時間がかかるか分からない。なのに、出る時間と帰る時間を聞かれている。

 ――これも、管理の一環なのか。

「ひとりで行くのか?」

「は、はい……」

 ただ予定を聞かれているだけのはずなのに、息苦しい。すべてに許可が必要なように感じて、声が小さくなっていく。

「わかった。それなら僕も一緒に行く」

「……え?」

 湊は、思わず顔を上げた。

「車を手配するから、少し待っていてくれ」

「い、いや……そんなこと、していただかなくても……」

「君が必要なものは、僕が揃えると言っただろう」

 鷹宮は立ち上がりながら、湊をまっすぐに見下ろした。

「それに、外は、まだ落ち着かないだろう?」

 その言葉で、湊の背筋が冷えた。

 取り立て屋のことを言っているのだ。路地裏で追い詰められていたところを、鷹宮が助けてくれた。あのときのことは、まだ解決していない。

 鷹宮の言葉はやさしい。心配してくれている。

 なのに――何か、圧力のようなものを感じた。

 反論できない空気。断れない雰囲気。

 湊は、黙って頷くしかなかった。

 すぐに配車の手配が済み、地下駐車場に向かった。

 そこには、いつもの黒い車ではなく、白い高級車が停まっていた。休日用なのだろうか。

「渋谷に向かってくれ」

 鷹宮が運転手に告げ、後部座席に乗り込む。湊も、いつものようにその隣に座った。

 車が静かに動き出す。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、湊はぼんやりと考えた。

 ひとりで出かけようとしただけなのに、気づけば鷹宮が一緒にいる。断ることもできないまま、こうして車に乗っている。

 ――おかしい、のだろうか。

 でも、心配してくれているのだから、ありがたいことなのかもしれない。

 そう思い込もうとした。

 渋谷に到着すると、鷹宮は湊のすぐ隣を歩いた。

 肩と肩がぶつかりそうな距離だった。十センチほど背の高い鷹宮を見上げると、彼はまっすぐ前を向いて歩いている。どこへ向かっているのか、湊には分からなかった。

 途中、気になる店があった。ウィンドウに飾られた小物が目に入って、横目で見た。

 でも、鷹宮は構うことなく前を向いて歩き続ける。

 ――立ち止まっていい雰囲気じゃない。

 見たいと言えなかった。鷹宮のペースに合わせて、黙ってついていくしかなかった。

「着いたぞ」

 連れてこられたのは、湊が今まで足を踏み入れたことのないセレクトショップだった。

 センスのよい服がずらりと並んでいる。ファッションに興味のない湊でも、その服が良質なものだと分かった。一着一着が、高そうだ。

「好きなものを選ぶといい」

「でも、俺、お金が……」

「君の身の回りのものは、僕が揃えると言っただろう」

 言葉は冷たく聞こえるのに、やさしい目で見つめられると、頬が熱くなった。

 ――買ってもらえる。

 素直に、嬉しかった。

「じゃ、じゃあ……」

 店内を見て回る。どの服を見ても、鷹宮がすぐ隣にいた。離れることがない。常に、視界の端に鷹宮の姿がある。

 気になる服を手に取り、身体に当ててみた。

「それは君には似合わないんじゃないか」

 鷹宮が、すぐに口を挟んだ。

 別の服を手に取る。

「そっちはよさそうだ。試着してみたらどうだ」

 いくつか試着し、鷹宮が「いい」と言ったものを三点ほど選んだ。会計は鷹宮持ちだ。スマートにクレジットカードを差し出し、淀みなく支払っている。

 ――俺が選んだものじゃない。

 ふと、そう思った。

 鷹宮が「似合わない」と言ったものは外し、「いい」と言ったものを選んだ。結局、湊の好みではなく、鷹宮の好みで決まっている。

 でも、買ってもらっているのだから、文句は言えない。

「次の店に行くぞ」

 鷹宮が紙袋を手に下げ、店を出た。

「あ、荷物……」

「構わない。今日は朝倉くんの買い物に付き合っているんだ。荷物持ちくらいさせてくれ」

 まるで恋人みたいなことを言われて、胸の奥がきゅっとなった。

 嬉しい。

 嬉しいのに、どこかがざわついている。

 次の店では靴を買った。何足か試着し、気に入った一足を選ぶと、鷹宮が聞いた。

「これだけでいいのか?」

「平日は仕事で履かないですし、一足あれば十分です」

 鷹宮は納得した様子で頷いた。

「君は本当に、物欲がないんだな」

 その言葉が、褒められているのか呆れられているのか、分からなかった。

 ――物欲がないことが、悪いことなのだろうか。

 でも、鷹宮が湊に似合う服や靴を選んでくれるのは、楽だった。自分で考えなくていい。迷わなくていい。言われた通りにしていればいい。

 店を出て、ふと人混みに目をやった。

 見覚えのある後ろ姿が、視界の端を横切った。

 ――あれ、誰だっけ。

 高校のときの友達か、それとも――。

 立ち止まろうとしたが、鷹宮がすでに先を歩き出していた。

 遅れを取らないように、湊も足を速めた。

 振り返ることは、できなかった。

 マンションに戻ると、夕暮れの光が部屋に差し込んでいた。

 鷹宮は両手いっぱいの紙袋を持ったまま、湊の部屋まで来てくれた。

「また必要なものがあれば、いつでも声をかけてくれ。一緒に行くから」

 紙袋を受け取りながら、湊は遠慮がちに言った。

「あの……繁華街に車で行くのは、不便じゃないですか? それに、ひとりで行った方が――」

 そこまで言って、鷹宮の顔を見た。

 眉間に、深い皺が寄っていた。

「僕は、君のことが心配だから一緒に行きたいだけだ」

「で、でも……」

「君は今、普通の状態じゃないだろう?」

 その言葉が、胸に刺さった。

「誰が君を傷つけたか。その結果、どうなったか。もう忘れたのか?」

 忘れていない。忘れられるわけがない。

 婚約者だと思っていた人間に裏切られた。借金を背負わされた。取り立て屋に追われて、家を失った。

 全部、自分のせいだ。人を信じすぎた自分が悪い。

「そ、それは……確かにそうですけど……」

「僕が君に付き添うのは、君を守るためだ」

 鷹宮の声が、少しやわらかくなった。

「君は、自分のことを大切にしないから。だから、僕が代わりに守る」

 その目は、真剣だった。いつもは感情が読めないのに、今は目尻がわずかに下がっている。

 ――守られている。

 今まで、こんなふうに言われたことがなかった。

 元婚約者でさえ、湊を守ってくれるとは言わなかった。むしろ、湊が尽くす側だった。

 それなのに、この人は。

 胸の奥に、温かいものがじんわりと広がった。

「……ありがとうございます。甘えさせてもらいます」

「うん。それでいい」

 鷹宮の手が、湊の後頭部に触れた。

 やさしい手つきで、髪を撫でられる。

 心臓が、どくりと跳ねた。

「買ったものを整理したら、リビングに来てくれ」

「……はい」

 鷹宮が部屋を出ていく。その背中を、湊はぼんやりと見つめていた。

 ――守られている。

 その言葉が、頭の中で反響していた。

 嬉しい。安心する。この人のそばにいれば、大丈夫だと思える。

 なのに――なぜだろう。

 胸の奥の、小さなざわつきが消えなかった。

 荷物を整理して、リビングに向かった。

 鷹宮はソファに座り、タブレット端末で何かを見ていた。長い足を組み、長い指で画面を滑らせている。

 湊が近づくと、顔を上げた。

「来たか。ここに座って」

 自分の隣を指す。

 湊は、言われた通りに座った。鷹宮との距離が、近い。肩が触れそうなほど。

「スマートフォンを出してくれ」

「……え?」

「連絡先の整理をする」

 心臓が、跳ねた。

 契約書に書いてあった。「連絡先の整理」。あのとき気になったけれど、聞けなかった項目だ。

 こんなに早く実行されるとは、思っていなかった。

「……あの……」

 身体に、緊張が走った。

 連絡先には、前の会社の同僚や、高校からの友人の番号が入っている。ほとんど連絡を取っていないけれど、繋がりがあるという事実が、どこかで湊を支えていた。

「今は必要な連絡先以外はいらない。一つずつ確認しながら整理していくから、連絡帳を開いてくれ」

「……なんで、そんなことを……」

 鷹宮は、小さく息を漏らした。

「不要な連絡先があっても、実際に連絡は取らないだろう? それに、混乱の元になる」

 ――混乱の元。

 確かに、連絡帳に登録はしているけれど、実際にやり取りをした相手がどれだけいるだろう。ほとんどいない。これから先、連絡を取るかと言われたら、たぶんしない。

「……わかりました」

 湊は、スマートフォンのロックを解除した。

 連絡帳を開く。百六十件ほどの名前が並んでいる。

 鷹宮は、画面を覗き込んでいた。でも、自分では操作しない。削除するかどうかの判断は、湊に任されているようだった。

 上から順番に、名前を見ていく。

 思い出せない相手が多い。前の仕事関連の取引先。飲み会で知り合って、名刺交換しただけの人。もう顔も覚えていない名前。

 ――確かに、いらないかもしれない。

 一件、また一件と、削除していく。

 最初は躊躇があった。でも、消していくうちに、だんだん手が慣れてきた。どうせ連絡しない相手だ。消しても困らない。

 なのに――消すたびに、胸の奥が軋んだ。

 自分が今まで築いてきたものが、少しずつ崩れていくような感覚。世界が、狭くなっていく感覚。

 ふと、指が止まった。

「その人は?」

 鷹宮が、表情を変えずに聞いた。

 画面には、「西村直哉」という名前が表示されていた。

 前の職場の同僚で、同期だった。会社を辞めてからも、たまに連絡を取り合っていた数少ない相手。

「前の職場の同僚で……」

「前の職場の人なら、必要ないのでは?」

 鷹宮が、静かに言った。

 正論だった。もう辞めた会社の人間と、繋がっている必要はない。

 でも――。

 湊は、なぜか西村とは繋がっていたいと思った。理由は分からない。ただ、消したくなかった。

「……そうですね」

 指が、削除ボタンの上で止まった。

 震えている。押せない。

 鷹宮が、小さくため息をついた。

「今日はこの辺にしよう」

 その声に、湊は安堵した。

 同時に、罪悪感が湧いた。鷹宮の言う通りにできなかった。期待に応えられなかった。

「……はい」

 湊は、大きく息を吐き出した。

 部屋に戻って、もう一度連絡帳を開いた。

 西村直哉。

 世話焼きで、正義感のあるやつだった。口は硬くも軽くもない。噂話を自分から広めるタイプではなかったし、人から聞いても「ふーん」と流すような男だった。

 そういえば、今日、渋谷で見かけた後ろ姿は、西村ではなかっただろうか。

 あのとき、立ち止まって確認していれば。声をかけていれば。

「西村、元気にしてるかな」

 もうずいぶん会っていない。人懐っこい笑顔を思い出して、口元が緩んだ。

 そのとき、ドアがノックされた。

 返事をする前に、扉が開いた。

「大丈夫か?」

 鷹宮が、心配そうな表情で立っていた。

「さっき、顔色が悪かったから」

「あ……はい、大丈夫です」

「そうか」

 鷹宮は、部屋の中に入ってきた。

「連絡先の整理は、無理しなくていい。今すぐ全部やる必要はないから、ゆっくりやっていこう」

 強制ではない、と言っている。

 確かに、全部消せとは言われていない。消すかどうかは、湊に委ねられている。

 ――それなら、まだ大丈夫だ。

 そう思った。

「そうですね。これを機に連絡先の整理ができて、よかったと思ってます」

 鷹宮は、満足げに頷いた。

「君はここにいればいい。僕が面倒を見るから、何も心配しなくていい」

 その言葉を聞くと、心がほのかに温かくなった。

 この人に守られるのなら、何も問題はない。そう思えた。

 何より、その方が、楽だった。

「ありがとうございます」

「うん」

 鷹宮が、湊の目を見つめた。

 その瞳の奥が、揺れているような気がした。

 何を考えているのか、分からない。でも、そこには確かに、何かがあった。

 湊を見ている。湊だけを見ている。

 その視線から、目を逸らせなかった。

 ――この人は、俺を必要としてくれている。

 そう思うと、胸がいっぱいになった。

 必要とされている。守られている。ここにいていい。

 それだけで、外の世界が、少し遠くなった気がした。

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