LOGIN鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。
会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。
「おはよう。朝食は十分後だ」
それだけ告げると、部屋を出ていく。
平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。
湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。
そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。
――休日でも、服は決められているのか。
そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。
シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。
今日の朝食は、和食だった。
ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。
平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。
湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。
味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。
「……おいしいです」
自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。
「そうか。口に合ったようでよかった」
鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。
「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」
「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」
鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。
鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方も、茶碗の上げ下げも、すべてが整っている。
育ちがいいのだろう。湊なんて、気づけばいつも猫背になっているし、肘をついて食べることもある。鷹宮の姿勢を見ていると、自分も正さなければと身が引き締まる。
食事を終えた鷹宮は、箸をゆっくりと箸置きに置いた。
「今日の予定は?」
その声が、少し低くなった気がした。
「今日は……買い物に行こうと思ってます」
「買い物? どこに?」
鷹宮の目が、湊をまっすぐに捉えた。
「えっと……まだ決めてないんですけど、渋谷あたりに出ようかと……」
本当は、何かを買うつもりはなかった。お金もないし、ただぶらぶらと歩き回りたかっただけだ。久しぶりに外の空気を吸いたかった。
「何時に出て、何時に戻る?」
「そ、それは……」
言葉が詰まった。
まだ何も決めていない。見て回れば、どれくらい時間がかかるか分からない。なのに、出る時間と帰る時間を聞かれている。
――これも、管理の一環なのか。
「ひとりで行くのか?」
「は、はい……」
ただ予定を聞かれているだけのはずなのに、息苦しい。すべてに許可が必要なように感じて、声が小さくなっていく。
「わかった。それなら僕も一緒に行く」
「……え?」
湊は、思わず顔を上げた。
「車を手配するから、少し待っていてくれ」
「い、いや……そんなこと、していただかなくても……」
「君が必要なものは、僕が揃えると言っただろう」
鷹宮は立ち上がりながら、湊をまっすぐに見下ろした。
「それに、外は、まだ落ち着かないだろう?」
その言葉で、湊の背筋が冷えた。
取り立て屋のことを言っているのだ。路地裏で追い詰められていたところを、鷹宮が助けてくれた。あのときのことは、まだ解決していない。
鷹宮の言葉はやさしい。心配してくれている。
なのに――何か、圧力のようなものを感じた。
反論できない空気。断れない雰囲気。
湊は、黙って頷くしかなかった。
*
すぐに配車の手配が済み、地下駐車場に向かった。
そこには、いつもの黒い車ではなく、白い高級車が停まっていた。休日用なのだろうか。
「渋谷に向かってくれ」
鷹宮が運転手に告げ、後部座席に乗り込む。湊も、いつものようにその隣に座った。
車が静かに動き出す。
窓の外を流れる景色を眺めながら、湊はぼんやりと考えた。
ひとりで出かけようとしただけなのに、気づけば鷹宮が一緒にいる。断ることもできないまま、こうして車に乗っている。
――おかしい、のだろうか。
でも、心配してくれているのだから、ありがたいことなのかもしれない。
そう思い込もうとした。
渋谷に到着すると、鷹宮は湊のすぐ隣を歩いた。
肩と肩がぶつかりそうな距離だった。十センチほど背の高い鷹宮を見上げると、彼はまっすぐ前を向いて歩いている。どこへ向かっているのか、湊には分からなかった。
途中、気になる店があった。ウィンドウに飾られた小物が目に入って、横目で見た。
でも、鷹宮は構うことなく前を向いて歩き続ける。
――立ち止まっていい雰囲気じゃない。
見たいと言えなかった。鷹宮のペースに合わせて、黙ってついていくしかなかった。
「着いたぞ」
連れてこられたのは、湊が今まで足を踏み入れたことのないセレクトショップだった。
センスのよい服がずらりと並んでいる。ファッションに興味のない湊でも、その服が良質なものだと分かった。一着一着が、高そうだ。
「好きなものを選ぶといい」
「でも、俺、お金が……」
「君の身の回りのものは、僕が揃えると言っただろう」
言葉は冷たく聞こえるのに、やさしい目で見つめられると、頬が熱くなった。
――買ってもらえる。
素直に、嬉しかった。
「じゃ、じゃあ……」
店内を見て回る。どの服を見ても、鷹宮がすぐ隣にいた。離れることがない。常に、視界の端に鷹宮の姿がある。
気になる服を手に取り、身体に当ててみた。
「それは君には似合わないんじゃないか」
鷹宮が、すぐに口を挟んだ。
別の服を手に取る。
「そっちはよさそうだ。試着してみたらどうだ」
いくつか試着し、鷹宮が「いい」と言ったものを三点ほど選んだ。会計は鷹宮持ちだ。スマートにクレジットカードを差し出し、淀みなく支払っている。
――俺が選んだものじゃない。
ふと、そう思った。
鷹宮が「似合わない」と言ったものは外し、「いい」と言ったものを選んだ。結局、湊の好みではなく、鷹宮の好みで決まっている。
でも、買ってもらっているのだから、文句は言えない。
「次の店に行くぞ」
鷹宮が紙袋を手に下げ、店を出た。
「あ、荷物……」
「構わない。今日は朝倉くんの買い物に付き合っているんだ。荷物持ちくらいさせてくれ」
まるで恋人みたいなことを言われて、胸の奥がきゅっとなった。
嬉しい。
嬉しいのに、どこかがざわついている。
次の店では靴を買った。何足か試着し、気に入った一足を選ぶと、鷹宮が聞いた。
「これだけでいいのか?」
「平日は仕事で履かないですし、一足あれば十分です」
鷹宮は納得した様子で頷いた。
「君は本当に、物欲がないんだな」
その言葉が、褒められているのか呆れられているのか、分からなかった。
――物欲がないことが、悪いことなのだろうか。
でも、鷹宮が湊に似合う服や靴を選んでくれるのは、楽だった。自分で考えなくていい。迷わなくていい。言われた通りにしていればいい。
店を出て、ふと人混みに目をやった。
見覚えのある後ろ姿が、視界の端を横切った。
――あれ、誰だっけ。
高校のときの友達か、それとも――。
立ち止まろうとしたが、鷹宮がすでに先を歩き出していた。
遅れを取らないように、湊も足を速めた。
振り返ることは、できなかった。
*
マンションに戻ると、夕暮れの光が部屋に差し込んでいた。
鷹宮は両手いっぱいの紙袋を持ったまま、湊の部屋まで来てくれた。
「また必要なものがあれば、いつでも声をかけてくれ。一緒に行くから」
紙袋を受け取りながら、湊は遠慮がちに言った。
「あの……繁華街に車で行くのは、不便じゃないですか? それに、ひとりで行った方が――」
そこまで言って、鷹宮の顔を見た。
眉間に、深い皺が寄っていた。
「僕は、君のことが心配だから一緒に行きたいだけだ」
「で、でも……」
「君は今、普通の状態じゃないだろう?」
その言葉が、胸に刺さった。
「誰が君を傷つけたか。その結果、どうなったか。もう忘れたのか?」
忘れていない。忘れられるわけがない。
婚約者だと思っていた人間に裏切られた。借金を背負わされた。取り立て屋に追われて、家を失った。
全部、自分のせいだ。人を信じすぎた自分が悪い。
「そ、それは……確かにそうですけど……」
「僕が君に付き添うのは、君を守るためだ」
鷹宮の声が、少しやわらかくなった。
「君は、自分のことを大切にしないから。だから、僕が代わりに守る」
その目は、真剣だった。いつもは感情が読めないのに、今は目尻がわずかに下がっている。
――守られている。
今まで、こんなふうに言われたことがなかった。
元婚約者でさえ、湊を守ってくれるとは言わなかった。むしろ、湊が尽くす側だった。
それなのに、この人は。
胸の奥に、温かいものがじんわりと広がった。
「……ありがとうございます。甘えさせてもらいます」
「うん。それでいい」
鷹宮の手が、湊の後頭部に触れた。
やさしい手つきで、髪を撫でられる。
心臓が、どくりと跳ねた。
「買ったものを整理したら、リビングに来てくれ」
「……はい」
鷹宮が部屋を出ていく。その背中を、湊はぼんやりと見つめていた。
――守られている。
その言葉が、頭の中で反響していた。
嬉しい。安心する。この人のそばにいれば、大丈夫だと思える。
なのに――なぜだろう。
胸の奥の、小さなざわつきが消えなかった。
*
荷物を整理して、リビングに向かった。
鷹宮はソファに座り、タブレット端末で何かを見ていた。長い足を組み、長い指で画面を滑らせている。
湊が近づくと、顔を上げた。
「来たか。ここに座って」
自分の隣を指す。
湊は、言われた通りに座った。鷹宮との距離が、近い。肩が触れそうなほど。
「スマートフォンを出してくれ」
「……え?」
「連絡先の整理をする」
心臓が、跳ねた。
契約書に書いてあった。「連絡先の整理」。あのとき気になったけれど、聞けなかった項目だ。
こんなに早く実行されるとは、思っていなかった。
「……あの……」
身体に、緊張が走った。
連絡先には、前の会社の同僚や、高校からの友人の番号が入っている。ほとんど連絡を取っていないけれど、繋がりがあるという事実が、どこかで湊を支えていた。
「今は必要な連絡先以外はいらない。一つずつ確認しながら整理していくから、連絡帳を開いてくれ」
「……なんで、そんなことを……」
鷹宮は、小さく息を漏らした。
「不要な連絡先があっても、実際に連絡は取らないだろう? それに、混乱の元になる」
――混乱の元。
確かに、連絡帳に登録はしているけれど、実際にやり取りをした相手がどれだけいるだろう。ほとんどいない。これから先、連絡を取るかと言われたら、たぶんしない。
「……わかりました」
湊は、スマートフォンのロックを解除した。
連絡帳を開く。百六十件ほどの名前が並んでいる。
鷹宮は、画面を覗き込んでいた。でも、自分では操作しない。削除するかどうかの判断は、湊に任されているようだった。
上から順番に、名前を見ていく。
思い出せない相手が多い。前の仕事関連の取引先。飲み会で知り合って、名刺交換しただけの人。もう顔も覚えていない名前。
――確かに、いらないかもしれない。
一件、また一件と、削除していく。
最初は躊躇があった。でも、消していくうちに、だんだん手が慣れてきた。どうせ連絡しない相手だ。消しても困らない。
なのに――消すたびに、胸の奥が軋んだ。
自分が今まで築いてきたものが、少しずつ崩れていくような感覚。世界が、狭くなっていく感覚。
ふと、指が止まった。
「その人は?」
鷹宮が、表情を変えずに聞いた。
画面には、「西村直哉」という名前が表示されていた。
前の職場の同僚で、同期だった。会社を辞めてからも、たまに連絡を取り合っていた数少ない相手。
「前の職場の同僚で……」
「前の職場の人なら、必要ないのでは?」
鷹宮が、静かに言った。
正論だった。もう辞めた会社の人間と、繋がっている必要はない。
でも――。
湊は、なぜか西村とは繋がっていたいと思った。理由は分からない。ただ、消したくなかった。
「……そうですね」
指が、削除ボタンの上で止まった。
震えている。押せない。
鷹宮が、小さくため息をついた。
「今日はこの辺にしよう」
その声に、湊は安堵した。
同時に、罪悪感が湧いた。鷹宮の言う通りにできなかった。期待に応えられなかった。
「……はい」
湊は、大きく息を吐き出した。
*
部屋に戻って、もう一度連絡帳を開いた。
西村直哉。
世話焼きで、正義感のあるやつだった。口は硬くも軽くもない。噂話を自分から広めるタイプではなかったし、人から聞いても「ふーん」と流すような男だった。
そういえば、今日、渋谷で見かけた後ろ姿は、西村ではなかっただろうか。
あのとき、立ち止まって確認していれば。声をかけていれば。
「西村、元気にしてるかな」
もうずいぶん会っていない。人懐っこい笑顔を思い出して、口元が緩んだ。
そのとき、ドアがノックされた。
返事をする前に、扉が開いた。
「大丈夫か?」
鷹宮が、心配そうな表情で立っていた。
「さっき、顔色が悪かったから」
「あ……はい、大丈夫です」
「そうか」
鷹宮は、部屋の中に入ってきた。
「連絡先の整理は、無理しなくていい。今すぐ全部やる必要はないから、ゆっくりやっていこう」
強制ではない、と言っている。
確かに、全部消せとは言われていない。消すかどうかは、湊に委ねられている。
――それなら、まだ大丈夫だ。
そう思った。
「そうですね。これを機に連絡先の整理ができて、よかったと思ってます」
鷹宮は、満足げに頷いた。
「君はここにいればいい。僕が面倒を見るから、何も心配しなくていい」
その言葉を聞くと、心がほのかに温かくなった。
この人に守られるのなら、何も問題はない。そう思えた。
何より、その方が、楽だった。
「ありがとうございます」
「うん」
鷹宮が、湊の目を見つめた。
その瞳の奥が、揺れているような気がした。
何を考えているのか、分からない。でも、そこには確かに、何かがあった。
湊を見ている。湊だけを見ている。
その視線から、目を逸らせなかった。
――この人は、俺を必要としてくれている。
そう思うと、胸がいっぱいになった。
必要とされている。守られている。ここにいていい。
それだけで、外の世界が、少し遠くなった気がした。
朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって
湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。
ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に
目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が
もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商
雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。