LOGIN鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。
会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。
「おはよう。朝食は十分後だ」
それだけ告げると、部屋を出ていく。
平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。
湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。
そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。
――休日でも、服は決められているのか。
そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。
シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。
今日の朝食は、和食だった。
ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。
平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。
湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。
味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。
「……おいしいです」
自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。
「そうか。口に合ったようでよかった」
鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。
「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」
「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」
鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。
鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方も、茶碗の上げ下げも、すべてが整っている。
育ちがいいのだろう。湊なんて、気づけばいつも猫背になっているし、肘をついて食べることもある。鷹宮の姿勢を見ていると、自分も正さなければと身が引き締まる。
食事を終えた鷹宮は、箸をゆっくりと箸置きに置いた。
「今日の予定は?」
その声が、少し低くなった気がした。
「今日は……買い物に行こうと思ってます」
「買い物? どこに?」
鷹宮の目が、湊をまっすぐに捉えた。
「えっと……まだ決めてないんですけど、渋谷あたりに出ようかと……」
本当は、何かを買うつもりはなかった。お金もないし、ただぶらぶらと歩き回りたかっただけだ。久しぶりに外の空気を吸いたかった。
「何時に出て、何時に戻る?」
「そ、それは……」
言葉が詰まった。
まだ何も決めていない。見て回れば、どれくらい時間がかかるか分からない。なのに、出る時間と帰る時間を聞かれている。
――これも、管理の一環なのか。
「ひとりで行くのか?」
「は、はい……」
ただ予定を聞かれているだけのはずなのに、息苦しい。すべてに許可が必要なように感じて、声が小さくなっていく。
「わかった。それなら僕も一緒に行く」
「……え?」
湊は、思わず顔を上げた。
「車を手配するから、少し待っていてくれ」
「い、いや……そんなこと、していただかなくても……」
「君が必要なものは、僕が揃えると言っただろう」
鷹宮は立ち上がりながら、湊をまっすぐに見下ろした。
「それに、外は、まだ落ち着かないだろう?」
その言葉で、湊の背筋が冷えた。
取り立て屋のことを言っているのだ。路地裏で追い詰められていたところを、鷹宮が助けてくれた。あのときのことは、まだ解決していない。
鷹宮の言葉はやさしい。心配してくれている。
なのに――何か、圧力のようなものを感じた。
反論できない空気。断れない雰囲気。
湊は、黙って頷くしかなかった。
*
すぐに配車の手配が済み、地下駐車場に向かった。
そこには、いつもの黒い車ではなく、白い高級車が停まっていた。休日用なのだろうか。
「渋谷に向かってくれ」
鷹宮が運転手に告げ、後部座席に乗り込む。湊も、いつものようにその隣に座った。
車が静かに動き出す。
窓の外を流れる景色を眺めながら、湊はぼんやりと考えた。
ひとりで出かけようとしただけなのに、気づけば鷹宮が一緒にいる。断ることもできないまま、こうして車に乗っている。
――おかしい、のだろうか。
でも、心配してくれているのだから、ありがたいことなのかもしれない。
そう思い込もうとした。
渋谷に到着すると、鷹宮は湊のすぐ隣を歩いた。
肩と肩がぶつかりそうな距離だった。十センチほど背の高い鷹宮を見上げると、彼はまっすぐ前を向いて歩いている。どこへ向かっているのか、湊には分からなかった。
途中、気になる店があった。ウィンドウに飾られた小物が目に入って、横目で見た。
でも、鷹宮は構うことなく前を向いて歩き続ける。
――立ち止まっていい雰囲気じゃない。
見たいと言えなかった。鷹宮のペースに合わせて、黙ってついていくしかなかった。
「着いたぞ」
連れてこられたのは、湊が今まで足を踏み入れたことのないセレクトショップだった。
センスのよい服がずらりと並んでいる。ファッションに興味のない湊でも、その服が良質なものだと分かった。一着一着が、高そうだ。
「好きなものを選ぶといい」
「でも、俺、お金が……」
「君の身の回りのものは、僕が揃えると言っただろう」
言葉は冷たく聞こえるのに、やさしい目で見つめられると、頬が熱くなった。
――買ってもらえる。
素直に、嬉しかった。
「じゃ、じゃあ……」
店内を見て回る。どの服を見ても、鷹宮がすぐ隣にいた。離れることがない。常に、視界の端に鷹宮の姿がある。
気になる服を手に取り、身体に当ててみた。
「それは君には似合わないんじゃないか」
鷹宮が、すぐに口を挟んだ。
別の服を手に取る。
「そっちはよさそうだ。試着してみたらどうだ」
いくつか試着し、鷹宮が「いい」と言ったものを三点ほど選んだ。会計は鷹宮持ちだ。スマートにクレジットカードを差し出し、淀みなく支払っている。
――俺が選んだものじゃない。
ふと、そう思った。
鷹宮が「似合わない」と言ったものは外し、「いい」と言ったものを選んだ。結局、湊の好みではなく、鷹宮の好みで決まっている。
でも、買ってもらっているのだから、文句は言えない。
「次の店に行くぞ」
鷹宮が紙袋を手に下げ、店を出た。
「あ、荷物……」
「構わない。今日は朝倉くんの買い物に付き合っているんだ。荷物持ちくらいさせてくれ」
まるで恋人みたいなことを言われて、胸の奥がきゅっとなった。
嬉しい。
嬉しいのに、どこかがざわついている。
次の店では靴を買った。何足か試着し、気に入った一足を選ぶと、鷹宮が聞いた。
「これだけでいいのか?」
「平日は仕事で履かないですし、一足あれば十分です」
鷹宮は納得した様子で頷いた。
「君は本当に、物欲がないんだな」
その言葉が、褒められているのか呆れられているのか、分からなかった。
――物欲がないことが、悪いことなのだろうか。
でも、鷹宮が湊に似合う服や靴を選んでくれるのは、楽だった。自分で考えなくていい。迷わなくていい。言われた通りにしていればいい。
店を出て、ふと人混みに目をやった。
見覚えのある後ろ姿が、視界の端を横切った。
――あれ、誰だっけ。
高校のときの友達か、それとも――。
立ち止まろうとしたが、鷹宮がすでに先を歩き出していた。
遅れを取らないように、湊も足を速めた。
振り返ることは、できなかった。
*
マンションに戻ると、夕暮れの光が部屋に差し込んでいた。
鷹宮は両手いっぱいの紙袋を持ったまま、湊の部屋まで来てくれた。
「また必要なものがあれば、いつでも声をかけてくれ。一緒に行くから」
紙袋を受け取りながら、湊は遠慮がちに言った。
「あの……繁華街に車で行くのは、不便じゃないですか? それに、ひとりで行った方が――」
そこまで言って、鷹宮の顔を見た。
眉間に、深い皺が寄っていた。
「僕は、君のことが心配だから一緒に行きたいだけだ」
「で、でも……」
「君は今、普通の状態じゃないだろう?」
その言葉が、胸に刺さった。
「誰が君を傷つけたか。その結果、どうなったか。もう忘れたのか?」
忘れていない。忘れられるわけがない。
婚約者だと思っていた人間に裏切られた。借金を背負わされた。取り立て屋に追われて、家を失った。
全部、自分のせいだ。人を信じすぎた自分が悪い。
「そ、それは……確かにそうですけど……」
「僕が君に付き添うのは、君を守るためだ」
鷹宮の声が、少しやわらかくなった。
「君は、自分のことを大切にしないから。だから、僕が代わりに守る」
その目は、真剣だった。いつもは感情が読めないのに、今は目尻がわずかに下がっている。
――守られている。
今まで、こんなふうに言われたことがなかった。
元婚約者でさえ、湊を守ってくれるとは言わなかった。むしろ、湊が尽くす側だった。
それなのに、この人は。
胸の奥に、温かいものがじんわりと広がった。
「……ありがとうございます。甘えさせてもらいます」
「うん。それでいい」
鷹宮の手が、湊の後頭部に触れた。
やさしい手つきで、髪を撫でられる。
心臓が、どくりと跳ねた。
「買ったものを整理したら、リビングに来てくれ」
「……はい」
鷹宮が部屋を出ていく。その背中を、湊はぼんやりと見つめていた。
――守られている。
その言葉が、頭の中で反響していた。
嬉しい。安心する。この人のそばにいれば、大丈夫だと思える。
なのに――なぜだろう。
胸の奥の、小さなざわつきが消えなかった。
*
荷物を整理して、リビングに向かった。
鷹宮はソファに座り、タブレット端末で何かを見ていた。長い足を組み、長い指で画面を滑らせている。
湊が近づくと、顔を上げた。
「来たか。ここに座って」
自分の隣を指す。
湊は、言われた通りに座った。鷹宮との距離が、近い。肩が触れそうなほど。
「スマートフォンを出してくれ」
「……え?」
「連絡先の整理をする」
心臓が、跳ねた。
契約書に書いてあった。「連絡先の整理」。あのとき気になったけれど、聞けなかった項目だ。
こんなに早く実行されるとは、思っていなかった。
「……あの……」
身体に、緊張が走った。
連絡先には、前の会社の同僚や、高校からの友人の番号が入っている。ほとんど連絡を取っていないけれど、繋がりがあるという事実が、どこかで湊を支えていた。
「今は必要な連絡先以外はいらない。一つずつ確認しながら整理していくから、連絡帳を開いてくれ」
「……なんで、そんなことを……」
鷹宮は、小さく息を漏らした。
「不要な連絡先があっても、実際に連絡は取らないだろう? それに、混乱の元になる」
――混乱の元。
確かに、連絡帳に登録はしているけれど、実際にやり取りをした相手がどれだけいるだろう。ほとんどいない。これから先、連絡を取るかと言われたら、たぶんしない。
「……わかりました」
湊は、スマートフォンのロックを解除した。
連絡帳を開く。百六十件ほどの名前が並んでいる。
鷹宮は、画面を覗き込んでいた。でも、自分では操作しない。削除するかどうかの判断は、湊に任されているようだった。
上から順番に、名前を見ていく。
思い出せない相手が多い。前の仕事関連の取引先。飲み会で知り合って、名刺交換しただけの人。もう顔も覚えていない名前。
――確かに、いらないかもしれない。
一件、また一件と、削除していく。
最初は躊躇があった。でも、消していくうちに、だんだん手が慣れてきた。どうせ連絡しない相手だ。消しても困らない。
なのに――消すたびに、胸の奥が軋んだ。
自分が今まで築いてきたものが、少しずつ崩れていくような感覚。世界が、狭くなっていく感覚。
ふと、指が止まった。
「その人は?」
鷹宮が、表情を変えずに聞いた。
画面には、「西村直哉」という名前が表示されていた。
前の職場の同僚で、同期だった。会社を辞めてからも、たまに連絡を取り合っていた数少ない相手。
「前の職場の同僚で……」
「前の職場の人なら、必要ないのでは?」
鷹宮が、静かに言った。
正論だった。もう辞めた会社の人間と、繋がっている必要はない。
でも――。
湊は、なぜか西村とは繋がっていたいと思った。理由は分からない。ただ、消したくなかった。
「……そうですね」
指が、削除ボタンの上で止まった。
震えている。押せない。
鷹宮が、小さくため息をついた。
「今日はこの辺にしよう」
その声に、湊は安堵した。
同時に、罪悪感が湧いた。鷹宮の言う通りにできなかった。期待に応えられなかった。
「……はい」
湊は、大きく息を吐き出した。
*
部屋に戻って、もう一度連絡帳を開いた。
西村直哉。
世話焼きで、正義感のあるやつだった。口は硬くも軽くもない。噂話を自分から広めるタイプではなかったし、人から聞いても「ふーん」と流すような男だった。
そういえば、今日、渋谷で見かけた後ろ姿は、西村ではなかっただろうか。
あのとき、立ち止まって確認していれば。声をかけていれば。
「西村、元気にしてるかな」
もうずいぶん会っていない。人懐っこい笑顔を思い出して、口元が緩んだ。
そのとき、ドアがノックされた。
返事をする前に、扉が開いた。
「大丈夫か?」
鷹宮が、心配そうな表情で立っていた。
「さっき、顔色が悪かったから」
「あ……はい、大丈夫です」
「そうか」
鷹宮は、部屋の中に入ってきた。
「連絡先の整理は、無理しなくていい。今すぐ全部やる必要はないから、ゆっくりやっていこう」
強制ではない、と言っている。
確かに、全部消せとは言われていない。消すかどうかは、湊に委ねられている。
――それなら、まだ大丈夫だ。
そう思った。
「そうですね。これを機に連絡先の整理ができて、よかったと思ってます」
鷹宮は、満足げに頷いた。
「君はここにいればいい。僕が面倒を見るから、何も心配しなくていい」
その言葉を聞くと、心がほのかに温かくなった。
この人に守られるのなら、何も問題はない。そう思えた。
何より、その方が、楽だった。
「ありがとうございます」
「うん」
鷹宮が、湊の目を見つめた。
その瞳の奥が、揺れているような気がした。
何を考えているのか、分からない。でも、そこには確かに、何かがあった。
湊を見ている。湊だけを見ている。
その視線から、目を逸らせなかった。
――この人は、俺を必要としてくれている。
そう思うと、胸がいっぱいになった。
必要とされている。守られている。ここにいていい。
それだけで、外の世界が、少し遠くなった気がした。
鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。「おはよう。朝食は十分後だ」 それだけ告げると、部屋を出ていく。 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。 ――休日でも、服は決められているのか。 そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。 シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。 今日の朝食は、和食だった。 ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。 平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。 湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。 味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。「……おいしいです」 自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。「そうか。口に合ったようでよかった」 鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」 鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。 鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方
コンコン。 扉をノックする音で、目が覚めた。 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。 ――ここは、どこだ。 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。 部屋の扉が、音もなく開いた。「おはよう。よく眠れたか」 鷹宮が、部屋の中に入ってきた。 すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。「はい……。よく眠れました」 嘘ではなかった。 ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。 久しぶりに、ちゃんと眠れた。「そうか。それはよかった」 鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。 眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。 湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」「……わかりました」 鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。 湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。 起こされた。 時間を決められた。 当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。 ――いや、これは普通のことだ。 住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。 空気が違う。匂いが違う。音が違う。 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。 まだ午前中だ。 ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。 俺は今、どんな人の家にいるんだ。 現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。 これほどの高層階に住める人間なのだ。 取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。 窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。「朝倉くん」 振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。 さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」「……はい」 湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。「座って」 鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。 言われるまま、
ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。 朝倉湊は、その顔から目を逸らした。 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 行く当てなど、どこにもない。 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。 どこに行けばいいのだろう。 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。 いや、違う。 全部、自分が悪い。 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。 だから、こんなことになっている。 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。 帰る家もない。仕事もない